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エレベータボタン問題に潜むUXの構造的問題

  1. http://fladdict.net/blog/2013/01/cognitive-buttons-for-elevator.html
  2. http://d.hatena.ne.jp/wa-ren/20130129/p1

を読んで、ボタンのデザインとしては1が分かりやすくてとても良いと思うのですが、2で指摘されている部分、

もそも根本的な話として、ひらくボタンはどういう時に使うのか? それは閉まりかけのドアに無理に入り込もうとする人を助けてあげるときや、先に入った人が後からくる人のために開けて待っているというシチュエーション。でもそれって、エレベーター利用者全体のUXを悪化させていると思うわけですよ。そもそも駆け込み乗車(乗籠?)は危険だからやるべきじゃぁない。また、Aさんが先に入って、歩みの遅いBさんのために開けたまま状態を延長することは他の階で待つユーザのUXを悪化させる。ひらくボタンが存在することによって悪化するUXはもっとある。駆け込み乗車しようとするCさんを先に乗った(こちらも急いでいる)Aさん見限るケースもそうだ。Cさんとしては『あ、あいつひらくボタンを押さずに俺を見捨てやがったな』と感じるし、Aさんとしても『もしAさんが間に合ったら、ここでひらくボタンを押さなかった私を恨むだろう。でも私だって急いでいるからあなたを待ちたくはないのだ….』と心おだやかではなくなるはずだ。

これはUX的視点としてとても重要です。で、ここで指摘しているにもかかわらず、ひらくボタンを無くしてとじるボタンを残すと、「目の前で閉めやがった」という状況が起こることには変わりないわけです。僕はどちらであろうと気にしませんが。

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叫ぶ云々はどうでもいいですが、対策としては、「エレベーター内部から近づいてくる人が見えないようにする」という方法が考えられます。

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レッシグ先生の「アーキテクチャ」的解決です。オフィスビルなんかではエントランスを煩雑にしないためにエレベーターホールが隠されてますが、そんな感じです。

つまり言いたいことはですね、UXを考えるならアーキテクチャも必要だよねってことです。そして、ボタンのデザイン(大きさ、色やら)は問題の発生確率を下げるように考えるわけですが、完璧なものはなくて2のように色々と副作用が生まれてくるわけです。

現代の建築士は通路の設計はしますが、エレベータを特注でつくるとなると高コストなので普通はしないでしょう。エレベータ―登場のほんの初期には、建築士とも相談してやっていたでしょう。今よりももっと高コストだったでしょうけど。

要するに普通の設計案件において建築士がすべてのUIを操作することは不可能で、既成品の組合せで大体はどうにかすることになります。そうした時に、せめてエレベーター会社はUI設計の理念というか目的を明らかにするべきでしょう。

ひらくボタンをなくすのもとじるボタンをなくすのもそれぞれ言い点悪い点は状況によって存在するので、都会の駅ビルとか人が多すぎて匿名性が高くかつ回転率を上げたい所ではとじるボタンだけのを用意するとか、上で顔を合わすことになる小さい会議場のビルとかはひらくボタンは残すとかいう「想定する状況と目的」をあらゆるプロダクトについて考えるべきだと思うんです。組み合わせやすいようにパタン・ランゲージとか使えよ!ってことです。

物語をめざして:これからの建築

学校の課題で「建築のミッション」を考えろってのがあって、年末から正月に読んだ本とかから得た思考をまとめるのにちょうどよかったので、思考断面として残しとく。

人が言ってたことを割と無批判に組み合わせた感じです。流れとしては、

  • なんか言うと「あいつは〇〇をわかってない」ってどっかから言われちゃう(島宇宙)

  • 全体的なこと語るのは無理:
    1. 今できることをしよう、問題を解決していこう、俺達の闘いはこれからだ!(部分的社会工学)
    2. 〇〇って△△にも使えるんじゃね?→共通の構造の探索(概念の拡張)

  • 1.の打ち切りエンドは現実的なように思えるが、未来の可能性という曖昧さに依存している。そんでたいがい僕たちはいつも未来では素晴らしい人類であるが、いつかの未来である今日の僕たちは素晴らしい人類ではない
  • 2.で行こう→建築の場合「建築に何が可能か」とか「時を超えた創造の道」とか「アーキテクチャ」とか

  • 物語性は階層とか参加者の差異を気にしない:ディズニーファンはみんなディズニーファン、オタクはオタクっていうくくり
  • でもコモディティ化すると典型的な「オタク」を演じるだけの傾向が強くなる:物語には離散も必要とかいろいろ工夫がいるよね

  • 現代の小さな物語群とか、コミュニティみたいなのの設計理論・評価理論を建築設計理論・建築論でやりましょうよ

みたいな感じです。「建築の概念は拡大したが、歴史的な設計概念との接続をちゃんとしないと」って思想地図vol.3の冒頭の対談で磯崎新さんが言ってて、藤村龍至さんがやってんのは拡張した「アーキテクチャ」の視点で近代の開発を見ていって現代との接続をはかる、あと「アーキテクチャ」を設計する実践みたいなことかなと理解しました。

僕はこれに物語性がやっぱ必要だなと思う。UXってバズってるけど、Apple製品でもディズニーファンでも、そこに参加する意義があるから満足を得られるという側面が大きいわけで、製品単体では語れないと思うし、その理論は建築家が担わんといけんだろう。という具合です。ゼロ年代っぽいふわふわ感はしゃーない。では以下本文。

 

概要

「人と同じ物を求めて集団参加の自己承認欲求を満たす」ことが批評的に捉えられ、「人と違うものを求めて同じ嗜好の人との小集団参加を成立させるために他の小集団を批評する」ことが一般的になったように思われる。これにはインターネット上のコミュニケーション手段の発展、つまり現実を俯瞰するメタレイヤーを私たちが獲得したことに大きく起因する。そのような状況の中で、全体的な傾向:パラダイムを考察するにしても、砂が手からこぼれ落ちるように部分の欠損が生じてしまう。そして、それが非難されるという状況にある。もはや自分の野において問題を解決する「部分的社会工学」に逃げるしかないのか。

逃走の手段として建築という思考の枠を広げて、多くの人の能力を向上させる大枠の設計理論・ツールの整備を行うという方法が考えられるが、それは必然的にさらなる能力格差をもたらす。そこにおいて人は幸せなのか。ブラック・ボックスとしての「安全」なシステムで「揺り籠から墓場まで」暮らすことに楽しみは見出だせるだろうが、国家としての競争力を持ちえなければ国内での絶対的な豊かさは成立しない。これらを導くものとして、建築はアーキテクチャのみならず、物語性を設計する理論をより深く取り扱うべきだと考える。

世界との調停

古来より、自らの動物的衝動、他人、世界との調停は哲学的探究の目標であった。厳しい戒律を伴う宗教は動物的衝動を理性によって制御する方策を模索し、同時に集団を作ることで社会参加をさせるというシステムを可能にした。[1]では、集団において期待される個人であることが必要であった初期キリスト教が、罪の告解の制度を契機として、個人の責任における社会を成立させたと説明している。しかし、キリスト教社会において、世界との調停は依然として問題であった。キリスト教では自然は神によって創られ、神の似姿たる人間にその支配を委ねたということになっており、その理性的な自然と、現実には恐ろしく牙をむく自然はともに図である人間に対して地であると捉えられてきた。

理性(思考/デジタル/記号)と世界(現実/アナログ)をつなぐこと。それはClaude Elwood ShannonとJohn von Neumannの業績による計算機の登場によって一歩実現に近づいたといえる。Shannonの情報理論においては、デジタルによるアナログの代替には無限の計算量が必要とされるが、われわれが世界を認知すること自体が記号と電気信号によっているのだという構造主義的解釈から見ると、私たちの認知上の世界と思考上の世界との接続が可能になるように思われる。

「島宇宙化する」現状

データの蓄積が可能となった今、時が経つほどデータは正確な予測を可能にし、それを扱う能力が必須のものとなることは明白である。Douglas Engelbartの提唱したGraphical User Interface(GUI)の発展によって情報理論や計算機の原理を理解しないままでも計算機を利用できるようになり、例えば最近ではMicrosoft OfficeやAdobe Creative Suiteなどのソフトウェアが研究、文学、絵画、映像表現を革新してきた。

データログの増大とともに、そこから有用な情報を抽出するデータマイニングが発展してきた。しかし多くのマイニング手法は増大するデータの次元性に対して現実的な時間で処理を行えない(「次元の呪い」と呼ばれる)ために、人間の判断による”preprocess”を必要とする。これにはデータマイニングの知識に加え、データのドメイン(どの分野のどのようなデータか)に関する知識も必要になる。最近、deep architectureと呼ばれる多層ニューラルネットによって、preprocess無しの画像処理が研究されているが、一般に使いやすい形になるにはもう少し時間がかかると思われる。[2]

しかし将来において、データの自動処理においてもブラック・ボックス的なソフトウェアの登場は間違いない。そして万人に与えられた能力に、相対的優位性は無い。社会に影響をおよぼすという点においては相対的優位性こそが不可欠である。つまり、ある処理をブラック・ボックス化することは、人が獲得したそれと同じ能力の相対的優位性を無くす側面がある。

このように以前はいろんな人に委託していた様々な処理がPCが一括請負することが可能となり、処理に係る判断を人間が行うことになってきた。そしてその選択はその人自身を規定していく。例えば携帯電話ひとつとっても待ち受け画面からGUIテーマ、インストールするアプリケーションなど、常に「自分を表現する事となるインターフェースの選択」を迫られている。そのような社会において嗜好の多様性が大きくなるのは当然であり、その社会においてそもそもパラダイムを語ることが不可能なのではないか、つまり建築においてマニフェストの時代は終わったのではないかという見方も至極当然である。

これは[3]の冒頭の対談でも浅田彰が指摘している。要約すると、

 

  • 「メディアがメッセージだ(つまり中身はなんでもいい)」と言ったマクルーハンは電子メディアによってグローバル・ヴィレッジができると言ったが、実際はローカル・ヴィレッジズにしかならなかった。小さな村が乱立して、各々の内部では村祭的に盛り上がる一方、それらのあいだではディスコミュニケーション状態にある。
  • ヘーゲル・マルクス的に社会の全体性を認識し上から革命的に変えていくという試みがスターリン・マオ的な悪夢に帰結した以上、ハイエク・ポパー的な観点(自生的な秩序として積み重なってきた社会を尊重しつつ、「部分的社会工学」で問題のある部分にパッチを当てていく程度にしよう)に立つほかない。
  • ヘーゲル・マルクス主義の後、それによる革命が失敗したからこそ哲学がまだ命脈を保っているんだというアドルノの「否定弁証法」(不可能な全体性をめぐる終わりなき思索)と、ポパーの「部分的社会工学」が、思考の空間を張る軸だった。

 

これは浅田が『構造と力』を出版する際に、70年代にいくつも生まれた「部分的社会工学」としての構造主義を、対談の主題である「アーキテクチャ」を語る際の問題設定と比較し、いっこうに変化がないことを指摘した文脈である。これに対して司会の東浩紀が「グローバル・ヴィレッジとローカル・ヴィレッジズは結構違う」とし、島宇宙間のディスコミュニケーションを越えてパラダイムを語ることの問題へと議論は移る。磯崎新はこの対談で「アーキテクチャの概念は拡張されてきているが、その歴史との正しい接続をするべきだ」と主張している。

部分的社会工学と概念の拡張は共に全体性を語ることからの逃避が可能である。部分的社会工学は、[3]の浅田の説明の通りだとすると、「自らのよく知る領野での問題解決をはかる」ことであり、概念の拡張は、「個別の事例についての対処は考慮せず、より本質的な部分を共有する他分野との統一理論を目指す」ことだとここでは考えるとする。建築での概念の拡張の端緒と考えられる原広司の『建築に何が可能か』の出版が1967年、Christopher Alexander『オレゴン大学の実験』の出版が1975年だったことを考えると、部分的社会工学も概念の拡張も、ともに70年代の特徴であったと考えられる。以降では、島宇宙間のディスコミュニケーションを越える可能性があるものとして概念の拡張のみを扱う。

概念の拡張の向かう先

島宇宙化した現状において、建築家が建築を指向する限りにおいて、もはや生き残るすべはない。それはCDからデジタルに音楽産業が移行しているなか、レコードの針の設計理論を語り続けるようなものである。幸い、建築という枠組みは従事者の思考ではなく、成果物によって与えられるため、概念の拡張によって建築学が死ぬことはない。

建築における概念の拡張のひとつはローレンス・レッシグの「アーキテクチャ」である。レッシグは人間の行動を制約するものとして、法律、規範、市場、アーキテクチャの4つを挙げ、それぞれ「取締りと刑罰によって行動を制約する(法律)」、「道徳を社会の全員に教え込んで行動を制約する(規範)」、「課税や補助金などで価格を上下させて行動を誘導する(市場)」、「社会の設計を変えることで社会環境の物理的・生物的・社会的条件を操作し人間の行動を誘導する(アーキテクチャ)」とした。[4]これにより、設計論は「アーキテクチャ」を設計する理論、建築論は「アーキテクチャ」を評価する理論となる。

実際、ソフトウェア開発の場面では建築の比喩が用いられたり[5]、デザイン・パターンなど設計理論を応用したスキームが使われるなどしている。[6]また近年では機能的に匹敵する製品の差異化のため、プロダクト開発の現場でUser Experience(UX)が盛んに研究されている。これらは、利用者としての人間と製品を一つの生態系として扱うものであり、そのため従来から人間の体験を重視してきた建築論の蓄積が応用されている。

人間とモノを含めた環境全てを人間として扱うという考え方は[7]でも示されている。これは世界との調停の端緒となる。世界の中での自分の定位を可能にすることは今まで宗教・社会の役割であった。[8]では、農村では時間的な祭りとして行われていた「人間が今までと違う存在に化けることを可能にする仕掛け」を空間化したものが都市であるとしているが、そうした環境との生態系を含めた個人の定位を扱うという意味で、設計理論は磯崎新の「撤退宣言」以来はじめて都市へと再帰する

しかし、もはや「設計」概念は建築に携わる人だけのモノではない。構造主義を応用した記号操作はソフトウェア開発と相性が良く、より厳密な理論化、手法化が行われている。またソフトウェア開発の技能なくしてはそれらの高度な運用はできない。建築家が今の建築を指向し続ける限り、都市に進出するのはプロダクト開発者であり、そして建築もまた然りであろう。それを支える証拠として、今後10年以内にGPSの精度向上と、それに伴うAR技術の隆盛が挙げられる。[9][10]私たちは、常に数十年先を見据えて動かなければならない。世界初のPC(MITS Altair8800)が発売されたのは、たったの38年前なのだ。

 物語性の設計理論

概念の拡張後の設計理論、建築論が十分に発展したとして、今の段階で不足だと考えられるのは物語性の理論である。人間同士は仲間を作ることで発展してきたが、それは同時に「仲間でない」人間をつくることでもある。[8]ではそれが都市の「悪場所」、または「中心と周縁」として語られる。つまり人間が日々暮らすということは安全性をアーキテクチャによって担保することが目標なのではなく、幸福を追求しているのであり、それは「自分に比べて不幸」な人間の認識を同時に生みだすことでもある。かつてそれを担っていたのは宗教だが、現代の日本ではそれが無いことが問題だとの指摘は[11][12]、今ではアニメやマンガなどのオタク文化がその大きな役割を担っているというのは[13]で主張されており、オタク系文化は欧米で問題となる「ジェンダー」や「階級」の差異を中和化する方向に働くと思われるということも[3]の最後のレポートで指摘されている。

それらは「ディズニーランド化」[14]とは異なる。「ディズニーランド」は、いわば島宇宙内での祭りであり、本来の祭りで起こるはずの階層の反転が起こらない、または演じられた階層の反転しか生じない。これは、場所によって「化ける」都市人類によって行われる現代の祭りである。ディズニーランドが生まれた当初はジェンダーや階層の差異なくディズニーを愛する人々が参加したであろうが、今となってはもはやディズニー好き同士がそれを確認しあう場にすぎない。コモディティ化したオタク文化においてもその傾向が近年強いように私には思われる。つまり、重要なのは「ディズニーランド化」ではなく、いかに島宇宙を越えて人々に仲間意識を芽生えさせ、簡単に離れることができるかである。そのための理論を、物語性の理論と呼び、物語性の理論を念頭に置いたプロジェクト・マネジメントを物語駆動型開発と呼ぶ。

好きなときに参加し、仲間意識を享受し、離脱するというのはメディア論で言うところの選択同期と呼ばれる。[15]ニコニコ動画はこの選択同期の例として挙げられる。つまり、動画という決まった時間軸の体験を、いつでも好きなときに他の人の過去の体験と共有できるのである。メタレイヤーとしてのインターネットと、場所化された都市の祭りとの組合せは、まさにこの選択同期といえよう。「食べログ」で話題の店を探し、好きなときに訪れ、体験でき、レビューを確認する。インターネットによって、本来祭りとして場所化されなかった場所でも祭りが起きる。インターネット上でのバズを日本では「祭り」と呼ぶのもうなずける。物語性の設計理論には、このように物語を生み出す構造の設計理論も含まれるべきである。

物語駆動型開発によって目指すのはイノベーションである。物語が参加者の差異を中和し、創造的コラボレーション、UXのビジョンをもたらす。直接的なソリューションの提供のみならず、国際的な競争力を獲得することで国内での絶対的な豊かさを向上させることを目指すべきである。建築は、概念の拡張が避けられない以上、正しくそこへの接続と舵取りを行わなければならない。

 

参考文献

[1] 阿部謹也, 『西洋中世の愛と人格』, 朝日新聞出版, 1992/11/26, ISBN:9784022565679

[2] Arel I. , “Deep Machine Learning – A New Frontier in Artificial Intelligence Research [Research Frontier]”, Computational Intelligence Magazine, IEEE, 2010-10

[3] 東浩紀, 北田暁大編, 『思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ』, 日本放送出版協会, 2009/05, ISBN-13: 978-4140093443

[4] ローレンス・レッシグ, 『コード』, 翔泳社, 2001/03/27, ISBN-13: 978-4881359938

[5] Eric S. Raymond, 『伽藍とバザール』, 1997/03/22, 日本語訳:http://cruel.org/freeware/cathedral.html

[6] 江渡浩一郎, 『パターン、Wiki、XP ~時を超えた創造の原則』, 技術評論社, 2009/07/10, ISBN-13: 978-4774138978

[7] 長谷敏司, 『BEETLESS』, 角川書店(角川グループパブリッシング), 2012/10/11, ISBN-13: 978-4041102909

[8] 山口昌男, 『祝祭都市―象徴人類学的アプローチ (旅とトポスの精神史)』, 岩波書店, 1984/11, ISBN-13: 978-4000043519

[9]  「準天頂衛星「みちびき」プロジェクト概要」, http://www.jaxa.jp/projects/sat/qzss/index_j.html

[10] 丸田一, 「進む3つの空間情報化」, http://wirelesswire.jp/3_spatial_info/archives.html

[11] 村上春樹,  『アンダーグラウンド』, 講談社, 1997/03/13, ISBN-13: 978-4062085755

[12] 村上春樹,  『約束された場所で―underground〈2〉』, 文藝春秋, 1998/11, ISBN-13: 978-4163546001

[13] 東浩紀, 『動物化するポストモダン』, 講談社, 2001/11/20, ISBN-13: 978-4061495753

[14] 中川理, 『偽装するニッポン―公共施設のディズニーランダゼイション』, 彰国社, 1996/02, ISBN-13: 978-4395004355

[15] 野津誠, 「Second Lifeとニコニコ動画の同期性、“後の祭り”と“いつでも祭り”」, http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2007/11/22/17620.html, 2007/11/22

ページ分割しまくる病

WIRED JAPANとかビジネス系のニュースサイトとかね。
20行程度のページが8ページとかなったらもうすごいイヤになる。

少なくとも僕にとって一番面倒なのは、わざわざマウスをちっこい”next page”ボタンに狙いを定めてクリックして、ゼロからロードされるページを待つことだ。
ひとつの記事を読むのにこれを4回以上繰り返さなければならないとなるとかなりとウンザリする。
「読みやすく分割しましたよ(ドヤ」みたいな。ありがた迷惑です。
マウスのスクロールはページ中どこでもできるでしょ!クリックはめんどいの!

あと縦スクロールするんだから画面内に表示される文字数を調整すればいくら長くてもそんな気になんないから!
僕は長いエントリを書くときは10数行で画像や大きめの改行を入れる。
これは頓智ドットの井口さんのブログを読んでて「読みやすいなー」って思ったときに気づいた。

でもいくつかのサイトが分割しまくってるのは、少なくとも彼らはそれが読みやすいからなのだろうか。
「分割ウゼェ」みたいなブコメは結構見るけど。
どうでしょうね。

UI快感原則

粘性のあるGUIを”なんか気持ちいい”と思ったことはないだろうか。クリックしたらパッと変化するんじゃなくて、うにょーんと動きが補完されているアレである。
ビジュアライジング・データでは、ばねの挙動(F=kx)でそれを実現していたが、そもそもアレはなんで気持ちいいのだろうか?
「き、気持よくなんか、ないんだから・・・ッ」ていう人はもうどうしようもないのでそっとブラウザを閉じていただくことにして、ここではアレは「ンギモッヂイイ」という前提で、だとしたらなぜ気持ちいいのか考えてみる。根拠は微妙。

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動きが遅くてあんまり気持ちよくないのは僕の岐阜技術のせいですきっと。

iPhoneはなぜ気持ちがよいのか? (1/5) | Telescope Magazine
上記の記事では、マウスカーソルの動きが手の動きと連動しているがゆえにカーソル自体は意識されずに、意識は画面内のコンテンツに向かう(カーソルの自己帰属率が100%とする)ので、その動きに一定の制限や変化を加えることで、自身が道具を操作していることに意識が向かい、(すなわち自己帰属率の操作によって)ひっかかりや滑らかさなどをユーザーに意識させることができるとしている。したがってただリッチなアニメーションを加えれば良いというわけではない、という主張も行なっている。

この視点で見ると、ばね補完されるコンテンツの変化は、ユーザーがマウスカーソルという透明な手の延長から加えた力が擬似的にコンテンツに伝達されているのだと言える。そして、なにかに自分の力を伝達するということは気持ちいいのだ。
これは球技などのスポーツをやっていた人なら経験的に感じていると思う。僕は野球をやっていたので野球で説明するが、野球のボールをうまく投げるためには、地面を蹴った反力に加え、体幹の回転と腕の振りからなるコリオリ力、そして筋肉の収縮力をタイミングよく強調させなければならない。適当なフォームだとうまくバックスピンしないので遠くまでボールが飛ばないし、力が体のどこかに集中することになるのでそこを傷めることになる。
という説明はどうでもいいのだが、これを習得すると、なんというか「投げるだけで気持ちいい」状態になるのだ。体を力が走り抜けていく感覚が気持ちよくて、放たれたボールがノビていくのも気持ちいいのだ。

別にこれは僕が変態だからではなくて、「狩猟時代の名残では」というのが野球研究家(?)の手塚一志氏の考えだ(確か「バッティングの正体」か「バッティングの極意」で読んだ気がする)。投石あるいは投槍は生死にかかわる技術であったろうというわけだ。
あと、ばね補完の「最初は速度が大きくて、最終的に0になる」ってのは投擲者の視点から見た投擲物の視平面上の速度でもあるので、注目してしまうってのもあるかもしれない。もっとも、人間の目が動きに反応するようにできてるので単にそのせいだとも言えるが。
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※この距離と速度の変化の割合はもちろん視対象との角度で違ってくる。

でも、この動きに反する動きでも気持ちいい時がある。

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これはSHARPのAndroid用UIであるFeel UXである(ステマじゃないよ)。
0:56ぐらいに、Welcome sheetのタブを引っ張ると、画面が両側に引き上げていくギミックがあるが、僕はこれがけっこう気持ちいいんじゃないかと思うのだ。

これは「からくり」の気持ちよさだ。
フィルムで撮るカメラのレンズをカバーする部分とかによく使われてたと思う。なんにせよ、これは自分が加えた力とタイミングこそ同期すれ、片方はまったく反対の方向に動く。またしても先ほどの透明性の議論での説明になるが、これが自分の力と同じ方向だけならコンテンツの動き自体意識されないままになるだろう。しかしこの場合方向が変えられているために、一瞬「あれ!?」と感じて、自己帰属率が下がり、その運動を意識する。そして「自分の力が広範囲に影響している」という快感を得ることができるのではないか。
力が影響範囲に関して増強されているから、気持ちいいんじゃないか。
Clearでタスクを消すのが気持ちいいのも、ファーストアクセスでコンテンツを全面に出したUIもさることながら、指でチョイッとスライドした行が、ポチョムキンッっと落ちていくとかそういう要は「力の増強」を動きの因果関係(スライドしたから枠から外れて落ちる)で行うことで気持ちよさを実現していると考えることができる。

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たぶんユーザーの「力の増強」の方向としては、
・作用範囲
・因果関係(効果音も含まれる)
・速度
・エフェクト(火花とかそういうの。効果音も。)
とかがあると思う。そしてこれらを、ユーザーのデバイスに対する帰属率を少し下げることで気づかせる必要がある。もちろん、単に速度を変えるだけでも帰属率は下がるだろうし、上記の「力の増強」によってほとんどそれらが行われる。
しかし、今度は逆に帰属率が下がりすぎるという心配もあるので、ユーザーの加えた力方向のベクトルを持つ割合の高い要素を増やすとかして対応するといいんでは。
そしたら運動方向だけに関してならベクトルの帰属率で解析できますね。

ここでもう1個の話。
今度はデバイスの視点になって考えてみよう。
デバイスはユーザー様に処理の過程をUIとして表示しなければならない。別にキッチンで料理をしているところを見せる必要はないけど、キッチンからテーブルに運ばれてくるまではスペクタクルである。「うおーうまそー」「ついに食べるんだ」っていう気持ちを持たせることが出来れば成功である。「明日また来てください。最高の(ry」とか言ってたらそのデバイスは捨てられるだろう。スピードも重要なのだ。

この、
・ユーザーが処理を行うまでのスペクタクル
・スピード
を実現しているのがうにょーんGUIだと言うわけだ。移動している間にユーザーはコンテンツを見ることができるし、だんだん遅くなるわけだからなんかこうデバイスがユーザー様の命じるとおりに素早く、しかも優しくコンテンツをサーブしてくれてるような感じを覚える。もちろん、移動中の操作をカバーしなければ意味が無いが。

このUIの実装の例は、データをリスト表示する際に、上からリストが降ってくるみたいなやつだ(ちょうどいいのが思い浮かばない)。デバイスの奥ゆかしい心が垣間見えて実に味わい深い瞬間である。

とりあえず僕が思ったのはこんな感じ。まとめると、
・自己帰属率の操作によってユーザーは操作を意識することになるが、そこにおける気持良さは「力の増強」であり、
  ・作用範囲
  ・因果関係(効果音も含まれる)
  ・速度
  ・エフェクト(火花とかそういうの。効果音も。)
 とかに対して行われる。
・自己帰属率の操作は「力の増強」そのものによっても下げられるが、下がり過ぎないよう補強が必要なときもある
・自己帰属率とは無関係に、ソフトの「奥ゆかしさ」も気持ちよさのひとつの要因である。

なんか当たり前なことしか言ってない気もするけどまあよしということで。