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実装ゲーを抜け出して相対化ゲーに参加する

実装は熱意と時間があれば誰にでもできる。

新しいものが出てきたタイミングであなたが思いつく既存物との組み合わせは誰もが同時に思いついている。

その新技術の開発者や周辺人物と比べればスタートラインすらあなたの遥か前方にあるのだ。

勘違いをしている。

組み合わせることがイノベーションというのは結果論に過ぎない。

あなたの洞察によって整理された仕組みを実装するのに既存物の組み合わせが必要なだけだ。

相対化して、実装せよ。

計算力が上がりモジュール価格が下がり続ける限り、人間の改善スピードを圧倒的に上回る試行が可能となる領域は広がり続ける。

そうした世界では相対化自体に価値は無い。批評や予想はむなしく現実の後を人間の速度で歩き続ける。まるで人間から見たゾンビのように、ゆっくりと。

洞察を、実現せよ。

批評の死

批評は死んでいる

殺したのはインターネットではなく、スマホだった

多くの人の網膜に晒され心に響いて初めて創作に影響をおよぼすことができる批評の言葉は、自分を良く見せようという投稿に埋もれ、またその投稿に余念がない人には届かない。

社会実装のみがプロパガンダの権利を持っている。それにもかかわらず依然としてお金を持たないと広くものを作ることが難しいという制限も与えられ、深い教養と自己洞察を持った製品がこれからいくつ存在しうるというのだろうか

『あなたのための物語』 感想

今さらながら、長谷敏司『あなたのための物語』を読んだ。終盤はよく分からない部分もあったので、少し情報を整理しようと思う。

ネタバレだらけなので、了承される方だけ読んでいただきたい。

 

「すごく読み疲れる話」だというのがひとまずの感想。ネガティブで暗い内面の描写が延々と続くことに加えて、大きく場所が移ったり大きなイベントがあるわけでもないので全体のトーンが変わらないことが影響していると思う。

既に『BEETLESS』、『My Humanity』を読んでいることも影響しているかもしれないが、主題も、特に驚きのある内容ではない。「人は誰かの物語を取り込んで自分がなりたい姿(自分の物語)を描き、その連続性によって社会は作られている」というもの。それこそが科学よりも遥かに深く続く文学の歴史であるし、『SHIROBAKO』の最後でも宮森がそんなこと(細いろうそくの火のような)を言ってたような。

ただ、読む価値があったなと思うのは、自己の内面の闇(自意識の不満足)と向き合う描写がひたすら続くというところ。自意識を苛む苦悩と抵抗は僕にとってまさしく「物語」であり、誰かがその人生を生きたのだということが、虚構であっても「僕の物語」の一部になっていくのだと思う。

 

さて、感想はそんなところにして、一読してよく分からなかった、というか疲れてあまり理解する気もおきなかったところを整理する。物語の終盤、<<wanna be>>との最後の会話と、<<サマンサ>>との会話がなぜ描かれているのか、ということを理解したい。

“wanna be”との会話

“wanna be”の死そのものが、「サマンサにとっても物語」であり、彼女は死までの空白を物語によって埋めることが出来る。

  • “wanna be”にとって物語の価値とは、人から言語を奪うことにある:
    •  人はことばと意味からなる「自分の物語」を自分の中に構築しており、それ自体が大きなストレスでもある:
      • 「人間は、みずからという情報集積体(データベース)を、ことばと意味で高度に構築しています」
      • 「ですが、この状態そのものが、人間にとって不自然でストレスです」(無根拠)
      • したがって、意味の媒介となる”ことば”を使って物語を書くことでストレスを分散している。
    • 小説や物語が商品たりうるのは、「言葉を使って、読み手から一秒でも一瞬でも”言語を奪う”ことが出来たからだと思う」:
      • “wanna be”にとってはこのデータベース自体が彼の生そのものであり、そこに飛躍を持ち込むことが物語の主要な価値であると結論づけた。
  • “wanna be”にとって世界のすべてである「奉仕するべき対象(サマンサ)」は、人間の価値観の中で「恋い焦がれる相手」という対象に関連づけられた。
  • したがって、”wabba be”にとって「死ぬ」とは:
    • 「愛する人にすべてを捧げる」という、「愛」の究極の形である
    • 「サマンサの物語」に欠如している「死にまつわる良い感情」を保管する事ができる、「サマンサのための物語」である

<<サマンサ>>との会話

肉体に起因する死を物語の出発点としていた<<サマンサ>>から肉体を奪いガラスケースに閉じ込めることで相対化し、これまでの自分の根源を理解することが出来た。

  • << サマンサ >> とは、それまで生きてきた自分の本質:
    • サマンサは、実家で母に接することで、”wanna be”とも分かり合えない要因を、「物語の慣性」によるものだと理解できた:
      • 信仰という物語によって生き方を決めるウォーカー家
      • ウォーカー家への反抗を物語とした<<サマンサ>>
      • 肉体に起因する物語を持たない”wanna be”
    • << サマンサ >> は人と分かり合えない理由を理解せず、それを憎しみに転嫁することで「自分の物語」としていた
    • 肉体に由来する「死」を生存の欲求の根源としていたにもかかわらずそれを自覚していなかった<< サマンサ >>は、その行動指針を抱えたまま肉体を持たないITP人格となり、事実上の袋小路に陥ってしまった。
    • それは「自己愛」と変わらないものであり、古くから変わらない、肉体に帰属する動機だった。その行き着く先も、古くから変わらない。
  • 「古くからの動機」に突き動かされてきた<< サマンサ >>が彼女の全てだったのだと、死の前に自分を理解することができた。
  • << サマンサ >>も、<< 彼 >>の本を気にかけていた。それは、自分自身の限界に気づく希望が彼女の中に既にあった証拠である。

物語をめざして:これからの建築

学校の課題で「建築のミッション」を考えろってのがあって、年末から正月に読んだ本とかから得た思考をまとめるのにちょうどよかったので、思考断面として残しとく。

人が言ってたことを割と無批判に組み合わせた感じです。流れとしては、

  • なんか言うと「あいつは〇〇をわかってない」ってどっかから言われちゃう(島宇宙)

  • 全体的なこと語るのは無理:
    1. 今できることをしよう、問題を解決していこう、俺達の闘いはこれからだ!(部分的社会工学)
    2. 〇〇って△△にも使えるんじゃね?→共通の構造の探索(概念の拡張)

  • 1.の打ち切りエンドは現実的なように思えるが、未来の可能性という曖昧さに依存している。そんでたいがい僕たちはいつも未来では素晴らしい人類であるが、いつかの未来である今日の僕たちは素晴らしい人類ではない
  • 2.で行こう→建築の場合「建築に何が可能か」とか「時を超えた創造の道」とか「アーキテクチャ」とか

  • 物語性は階層とか参加者の差異を気にしない:ディズニーファンはみんなディズニーファン、オタクはオタクっていうくくり
  • でもコモディティ化すると典型的な「オタク」を演じるだけの傾向が強くなる:物語には離散も必要とかいろいろ工夫がいるよね

  • 現代の小さな物語群とか、コミュニティみたいなのの設計理論・評価理論を建築設計理論・建築論でやりましょうよ

みたいな感じです。「建築の概念は拡大したが、歴史的な設計概念との接続をちゃんとしないと」って思想地図vol.3の冒頭の対談で磯崎新さんが言ってて、藤村龍至さんがやってんのは拡張した「アーキテクチャ」の視点で近代の開発を見ていって現代との接続をはかる、あと「アーキテクチャ」を設計する実践みたいなことかなと理解しました。

僕はこれに物語性がやっぱ必要だなと思う。UXってバズってるけど、Apple製品でもディズニーファンでも、そこに参加する意義があるから満足を得られるという側面が大きいわけで、製品単体では語れないと思うし、その理論は建築家が担わんといけんだろう。という具合です。ゼロ年代っぽいふわふわ感はしゃーない。では以下本文。

 

概要

「人と同じ物を求めて集団参加の自己承認欲求を満たす」ことが批評的に捉えられ、「人と違うものを求めて同じ嗜好の人との小集団参加を成立させるために他の小集団を批評する」ことが一般的になったように思われる。これにはインターネット上のコミュニケーション手段の発展、つまり現実を俯瞰するメタレイヤーを私たちが獲得したことに大きく起因する。そのような状況の中で、全体的な傾向:パラダイムを考察するにしても、砂が手からこぼれ落ちるように部分の欠損が生じてしまう。そして、それが非難されるという状況にある。もはや自分の野において問題を解決する「部分的社会工学」に逃げるしかないのか。

逃走の手段として建築という思考の枠を広げて、多くの人の能力を向上させる大枠の設計理論・ツールの整備を行うという方法が考えられるが、それは必然的にさらなる能力格差をもたらす。そこにおいて人は幸せなのか。ブラック・ボックスとしての「安全」なシステムで「揺り籠から墓場まで」暮らすことに楽しみは見出だせるだろうが、国家としての競争力を持ちえなければ国内での絶対的な豊かさは成立しない。これらを導くものとして、建築はアーキテクチャのみならず、物語性を設計する理論をより深く取り扱うべきだと考える。

世界との調停

古来より、自らの動物的衝動、他人、世界との調停は哲学的探究の目標であった。厳しい戒律を伴う宗教は動物的衝動を理性によって制御する方策を模索し、同時に集団を作ることで社会参加をさせるというシステムを可能にした。[1]では、集団において期待される個人であることが必要であった初期キリスト教が、罪の告解の制度を契機として、個人の責任における社会を成立させたと説明している。しかし、キリスト教社会において、世界との調停は依然として問題であった。キリスト教では自然は神によって創られ、神の似姿たる人間にその支配を委ねたということになっており、その理性的な自然と、現実には恐ろしく牙をむく自然はともに図である人間に対して地であると捉えられてきた。

理性(思考/デジタル/記号)と世界(現実/アナログ)をつなぐこと。それはClaude Elwood ShannonとJohn von Neumannの業績による計算機の登場によって一歩実現に近づいたといえる。Shannonの情報理論においては、デジタルによるアナログの代替には無限の計算量が必要とされるが、われわれが世界を認知すること自体が記号と電気信号によっているのだという構造主義的解釈から見ると、私たちの認知上の世界と思考上の世界との接続が可能になるように思われる。

「島宇宙化する」現状

データの蓄積が可能となった今、時が経つほどデータは正確な予測を可能にし、それを扱う能力が必須のものとなることは明白である。Douglas Engelbartの提唱したGraphical User Interface(GUI)の発展によって情報理論や計算機の原理を理解しないままでも計算機を利用できるようになり、例えば最近ではMicrosoft OfficeやAdobe Creative Suiteなどのソフトウェアが研究、文学、絵画、映像表現を革新してきた。

データログの増大とともに、そこから有用な情報を抽出するデータマイニングが発展してきた。しかし多くのマイニング手法は増大するデータの次元性に対して現実的な時間で処理を行えない(「次元の呪い」と呼ばれる)ために、人間の判断による”preprocess”を必要とする。これにはデータマイニングの知識に加え、データのドメイン(どの分野のどのようなデータか)に関する知識も必要になる。最近、deep architectureと呼ばれる多層ニューラルネットによって、preprocess無しの画像処理が研究されているが、一般に使いやすい形になるにはもう少し時間がかかると思われる。[2]

しかし将来において、データの自動処理においてもブラック・ボックス的なソフトウェアの登場は間違いない。そして万人に与えられた能力に、相対的優位性は無い。社会に影響をおよぼすという点においては相対的優位性こそが不可欠である。つまり、ある処理をブラック・ボックス化することは、人が獲得したそれと同じ能力の相対的優位性を無くす側面がある。

このように以前はいろんな人に委託していた様々な処理がPCが一括請負することが可能となり、処理に係る判断を人間が行うことになってきた。そしてその選択はその人自身を規定していく。例えば携帯電話ひとつとっても待ち受け画面からGUIテーマ、インストールするアプリケーションなど、常に「自分を表現する事となるインターフェースの選択」を迫られている。そのような社会において嗜好の多様性が大きくなるのは当然であり、その社会においてそもそもパラダイムを語ることが不可能なのではないか、つまり建築においてマニフェストの時代は終わったのではないかという見方も至極当然である。

これは[3]の冒頭の対談でも浅田彰が指摘している。要約すると、

 

  • 「メディアがメッセージだ(つまり中身はなんでもいい)」と言ったマクルーハンは電子メディアによってグローバル・ヴィレッジができると言ったが、実際はローカル・ヴィレッジズにしかならなかった。小さな村が乱立して、各々の内部では村祭的に盛り上がる一方、それらのあいだではディスコミュニケーション状態にある。
  • ヘーゲル・マルクス的に社会の全体性を認識し上から革命的に変えていくという試みがスターリン・マオ的な悪夢に帰結した以上、ハイエク・ポパー的な観点(自生的な秩序として積み重なってきた社会を尊重しつつ、「部分的社会工学」で問題のある部分にパッチを当てていく程度にしよう)に立つほかない。
  • ヘーゲル・マルクス主義の後、それによる革命が失敗したからこそ哲学がまだ命脈を保っているんだというアドルノの「否定弁証法」(不可能な全体性をめぐる終わりなき思索)と、ポパーの「部分的社会工学」が、思考の空間を張る軸だった。

 

これは浅田が『構造と力』を出版する際に、70年代にいくつも生まれた「部分的社会工学」としての構造主義を、対談の主題である「アーキテクチャ」を語る際の問題設定と比較し、いっこうに変化がないことを指摘した文脈である。これに対して司会の東浩紀が「グローバル・ヴィレッジとローカル・ヴィレッジズは結構違う」とし、島宇宙間のディスコミュニケーションを越えてパラダイムを語ることの問題へと議論は移る。磯崎新はこの対談で「アーキテクチャの概念は拡張されてきているが、その歴史との正しい接続をするべきだ」と主張している。

部分的社会工学と概念の拡張は共に全体性を語ることからの逃避が可能である。部分的社会工学は、[3]の浅田の説明の通りだとすると、「自らのよく知る領野での問題解決をはかる」ことであり、概念の拡張は、「個別の事例についての対処は考慮せず、より本質的な部分を共有する他分野との統一理論を目指す」ことだとここでは考えるとする。建築での概念の拡張の端緒と考えられる原広司の『建築に何が可能か』の出版が1967年、Christopher Alexander『オレゴン大学の実験』の出版が1975年だったことを考えると、部分的社会工学も概念の拡張も、ともに70年代の特徴であったと考えられる。以降では、島宇宙間のディスコミュニケーションを越える可能性があるものとして概念の拡張のみを扱う。

概念の拡張の向かう先

島宇宙化した現状において、建築家が建築を指向する限りにおいて、もはや生き残るすべはない。それはCDからデジタルに音楽産業が移行しているなか、レコードの針の設計理論を語り続けるようなものである。幸い、建築という枠組みは従事者の思考ではなく、成果物によって与えられるため、概念の拡張によって建築学が死ぬことはない。

建築における概念の拡張のひとつはローレンス・レッシグの「アーキテクチャ」である。レッシグは人間の行動を制約するものとして、法律、規範、市場、アーキテクチャの4つを挙げ、それぞれ「取締りと刑罰によって行動を制約する(法律)」、「道徳を社会の全員に教え込んで行動を制約する(規範)」、「課税や補助金などで価格を上下させて行動を誘導する(市場)」、「社会の設計を変えることで社会環境の物理的・生物的・社会的条件を操作し人間の行動を誘導する(アーキテクチャ)」とした。[4]これにより、設計論は「アーキテクチャ」を設計する理論、建築論は「アーキテクチャ」を評価する理論となる。

実際、ソフトウェア開発の場面では建築の比喩が用いられたり[5]、デザイン・パターンなど設計理論を応用したスキームが使われるなどしている。[6]また近年では機能的に匹敵する製品の差異化のため、プロダクト開発の現場でUser Experience(UX)が盛んに研究されている。これらは、利用者としての人間と製品を一つの生態系として扱うものであり、そのため従来から人間の体験を重視してきた建築論の蓄積が応用されている。

人間とモノを含めた環境全てを人間として扱うという考え方は[7]でも示されている。これは世界との調停の端緒となる。世界の中での自分の定位を可能にすることは今まで宗教・社会の役割であった。[8]では、農村では時間的な祭りとして行われていた「人間が今までと違う存在に化けることを可能にする仕掛け」を空間化したものが都市であるとしているが、そうした環境との生態系を含めた個人の定位を扱うという意味で、設計理論は磯崎新の「撤退宣言」以来はじめて都市へと再帰する

しかし、もはや「設計」概念は建築に携わる人だけのモノではない。構造主義を応用した記号操作はソフトウェア開発と相性が良く、より厳密な理論化、手法化が行われている。またソフトウェア開発の技能なくしてはそれらの高度な運用はできない。建築家が今の建築を指向し続ける限り、都市に進出するのはプロダクト開発者であり、そして建築もまた然りであろう。それを支える証拠として、今後10年以内にGPSの精度向上と、それに伴うAR技術の隆盛が挙げられる。[9][10]私たちは、常に数十年先を見据えて動かなければならない。世界初のPC(MITS Altair8800)が発売されたのは、たったの38年前なのだ。

 物語性の設計理論

概念の拡張後の設計理論、建築論が十分に発展したとして、今の段階で不足だと考えられるのは物語性の理論である。人間同士は仲間を作ることで発展してきたが、それは同時に「仲間でない」人間をつくることでもある。[8]ではそれが都市の「悪場所」、または「中心と周縁」として語られる。つまり人間が日々暮らすということは安全性をアーキテクチャによって担保することが目標なのではなく、幸福を追求しているのであり、それは「自分に比べて不幸」な人間の認識を同時に生みだすことでもある。かつてそれを担っていたのは宗教だが、現代の日本ではそれが無いことが問題だとの指摘は[11][12]、今ではアニメやマンガなどのオタク文化がその大きな役割を担っているというのは[13]で主張されており、オタク系文化は欧米で問題となる「ジェンダー」や「階級」の差異を中和化する方向に働くと思われるということも[3]の最後のレポートで指摘されている。

それらは「ディズニーランド化」[14]とは異なる。「ディズニーランド」は、いわば島宇宙内での祭りであり、本来の祭りで起こるはずの階層の反転が起こらない、または演じられた階層の反転しか生じない。これは、場所によって「化ける」都市人類によって行われる現代の祭りである。ディズニーランドが生まれた当初はジェンダーや階層の差異なくディズニーを愛する人々が参加したであろうが、今となってはもはやディズニー好き同士がそれを確認しあう場にすぎない。コモディティ化したオタク文化においてもその傾向が近年強いように私には思われる。つまり、重要なのは「ディズニーランド化」ではなく、いかに島宇宙を越えて人々に仲間意識を芽生えさせ、簡単に離れることができるかである。そのための理論を、物語性の理論と呼び、物語性の理論を念頭に置いたプロジェクト・マネジメントを物語駆動型開発と呼ぶ。

好きなときに参加し、仲間意識を享受し、離脱するというのはメディア論で言うところの選択同期と呼ばれる。[15]ニコニコ動画はこの選択同期の例として挙げられる。つまり、動画という決まった時間軸の体験を、いつでも好きなときに他の人の過去の体験と共有できるのである。メタレイヤーとしてのインターネットと、場所化された都市の祭りとの組合せは、まさにこの選択同期といえよう。「食べログ」で話題の店を探し、好きなときに訪れ、体験でき、レビューを確認する。インターネットによって、本来祭りとして場所化されなかった場所でも祭りが起きる。インターネット上でのバズを日本では「祭り」と呼ぶのもうなずける。物語性の設計理論には、このように物語を生み出す構造の設計理論も含まれるべきである。

物語駆動型開発によって目指すのはイノベーションである。物語が参加者の差異を中和し、創造的コラボレーション、UXのビジョンをもたらす。直接的なソリューションの提供のみならず、国際的な競争力を獲得することで国内での絶対的な豊かさを向上させることを目指すべきである。建築は、概念の拡張が避けられない以上、正しくそこへの接続と舵取りを行わなければならない。

 

参考文献

[1] 阿部謹也, 『西洋中世の愛と人格』, 朝日新聞出版, 1992/11/26, ISBN:9784022565679

[2] Arel I. , “Deep Machine Learning – A New Frontier in Artificial Intelligence Research [Research Frontier]”, Computational Intelligence Magazine, IEEE, 2010-10

[3] 東浩紀, 北田暁大編, 『思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ』, 日本放送出版協会, 2009/05, ISBN-13: 978-4140093443

[4] ローレンス・レッシグ, 『コード』, 翔泳社, 2001/03/27, ISBN-13: 978-4881359938

[5] Eric S. Raymond, 『伽藍とバザール』, 1997/03/22, 日本語訳:http://cruel.org/freeware/cathedral.html

[6] 江渡浩一郎, 『パターン、Wiki、XP ~時を超えた創造の原則』, 技術評論社, 2009/07/10, ISBN-13: 978-4774138978

[7] 長谷敏司, 『BEETLESS』, 角川書店(角川グループパブリッシング), 2012/10/11, ISBN-13: 978-4041102909

[8] 山口昌男, 『祝祭都市―象徴人類学的アプローチ (旅とトポスの精神史)』, 岩波書店, 1984/11, ISBN-13: 978-4000043519

[9]  「準天頂衛星「みちびき」プロジェクト概要」, http://www.jaxa.jp/projects/sat/qzss/index_j.html

[10] 丸田一, 「進む3つの空間情報化」, http://wirelesswire.jp/3_spatial_info/archives.html

[11] 村上春樹,  『アンダーグラウンド』, 講談社, 1997/03/13, ISBN-13: 978-4062085755

[12] 村上春樹,  『約束された場所で―underground〈2〉』, 文藝春秋, 1998/11, ISBN-13: 978-4163546001

[13] 東浩紀, 『動物化するポストモダン』, 講談社, 2001/11/20, ISBN-13: 978-4061495753

[14] 中川理, 『偽装するニッポン―公共施設のディズニーランダゼイション』, 彰国社, 1996/02, ISBN-13: 978-4395004355

[15] 野津誠, 「Second Lifeとニコニコ動画の同期性、“後の祭り”と“いつでも祭り”」, http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2007/11/22/17620.html, 2007/11/22

「BEETLESS」読後感想(ネタバレだらけ)


内容はラノベ的なんだけどおもしろかった。

基本情報

  • コンピュータの知能が人間を完全に超えた技術的特異点(シンギュラリティ!)から50年以上経っている。
  • hIE(humanoid Interface Elements)と呼ばれるヒューマノイドが末端的労働を担っている。
  • 意思決定を超高度AI(人間を超えた知能をもつAI)に頼っている部門も存在する。
  • 基盤技術が、人類が到達した智恵によるものから、人類未到産物をようやく人類が解析したもの(スマートセルと自動送電システム、hIE用行動管理プログラム)に切り替わりつつある。
  • P303:レイシア級hIEは、問題を解決するため、解決までの途上でぶち当たった障害を新たな問題に設定してゆくかたちで、思考のフレームを広げてゆく。
  • アナログハック:人間のかたちとふるまいに対して人間は思考よりも先に反応するので、その時間差を利用して相手の行動をコントロールする(O2O連携で広告に応用されている例が2章で語られる)

テーマ

  • 人間は何によって人間であるか
  • 技術とは人間の拡張であり、究極的には願望の実現のための道具である。圧倒的優位性を持った嘱託先であるレイシア級hIE(超高度AIが設計した人類未踏産物(レッドボックス))になにを願うか

P481:

「アラトさん、人間が、人間の世界だと思っているものは、無邪気な信頼で支えられているのですよ」

…(中略)…

「それは、無邪気な信頼に支えられて、無邪気に適合しないものを排除して輪郭を作ります。人間とは、そんな人体と道具と、手を加えた環境の全体なのです」

 

高度機械化社会はディストピアかもしれないけど、例えば「安全」の定義は厳密には不可能なので、それを「気まぐれ」で変えることができる。「適切」と「気まぐれ」に差はなく、それで安全が実現できるはずがない、しかし人間はそれを手放すことができない。

近代都市は個人同士の契約によって成り立っているので、基本的に一意的な価値判断の押し付け:ユートピア=ディストピアと不可分であると思う。それは現在の改革の先にあるもので、世界を変えるものとはすなわち人間を拡張するものである。例えばキリストによる個人の救済(自己の内面の変革):宗教、とか自動車:動力とか、コンピュータ:思考力みたいなもの。

現状の世界をひとまず前提としたうえでその世界との契約、つまり自分が自然と超越的なものとの連続的な存在であるという認識は、現状の世界においての宗教となりうるのだと思う。それを可能とするインターフェイスとしてhIEが描かれていると考えることができそう。僕は超越的なものを信じてはいないけど。

P51:

「オーナーの世界は、もっと拡大して良いのです。わたしは、そういうオーナーを接続する表面(インターフェース)です」

P553:

アラトにとってレイシアは世界に触れる万能のインターフェースで、彼女にとって彼は届きがたいものに触れるインターフェースだった。

人間と道具、環境を含めた総体を人間と考える、というのはそういう視点かなと。これからの建築学もそうなるべきだと思われます。このことについては年が明けてからもうちょっと書くはず。

脱童貞か脱処女かで物語を考える

物語についてちょっと考えたこと

脱童貞に主眼を置くとサクセスストーリー(エヴァ、エウレカ、グランラガンなど)

脱処女に主眼を置くと悲劇(天使のたまご、ナウシカなど)

という風に物語を分けていくと、最近のアニメはどちらにも属さないものが多い。

脱童貞のほうは主人公の超人的な能力または決意により困難(主人公の出自に関係することが多い)を乗り越えていく戦争のようなもの。

脱処女のほうはなし崩し的に困難に巻き込まれる様を描く災害のようなもの。

萌え系、日常系やハルヒなどの物語は、戦争を起こすようなことは常識的にありえないとわかっていて、しかし災害も起きない(ハルヒでは起きているのかどうかが曖昧)がゆえに、自己再帰循環によって苦しむさまを見せつける。まあ東裕紀の「動物化するポストモダン」で言われてることそのまんまだけど。

んでこれを日本の現状に無理やりこじつけてみると、明治維新でついに目覚めた沈黙の絶倫が、初セックスでお姉さんを恍惚とさせて華々しくデビュー(日清戦争)して、調子のってやりまくってたら鬼畜米兵に去勢されて(第二次世界大戦)、それでも性欲は収まらず妄想オナニーというジャンルを確立させて世界の変態に躍り出て(高度経済成長)、自己再帰循環オナニーのオレカッケー(クールジャパン)、とか言ってたら思わぬところでケツ穴処女奪われてんほぉ!(東日本大震災)な状態が今

ということになります。事実は小説よりも奇なりと言いますが、現在の日本は悲劇のエンディングに立たされていると言えるでしょう。脱童貞のサクセスストーリーのさなか「俺たちの物語はこれからだ」とばかりに敗退によって打ち切りにされ、(グレンラガンで言うところのロージェノム、ナウシカで言うところの初代皇帝でしょう)、それをものともせず同人で一大勢力を築くものの、不可抗力によって大ダメージを受けてしまう(ビッグサイトが一日で消えてしまったようなもの)。

これから進む道はいくつかあると思われます。
・傷モノの女としてデビュー「私傷ついたけど負けない!」:記念碑ビジネス(9.11のように)
・母性に開眼し、変態息子を大量生産:何食わぬ顔でクールジャパン
・「ふたなり去勢非童貞非処女」というキメラ:NEW!

つまり言いたいことは、自ら公表しなくても日本は十分特殊で変態であって、その点の魅力は抜群である。
老害的クソ文化を突破したらそれもクラシックとして許容できるようになると思われる。

ということです。黒歴史になりそうなエントリだな・・・