映画『この世界の片隅に』感想

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批評の死

前例を見ないアニメ映画だ、と思った。こうの史代の美しい絵を、動画としての魅力をもたせながらここまでのクオリティに仕上げることができるのかという驚きと、気づけば鑑賞者として作品世界へ没入してしまうキメ細やかな演出が素晴らしく、見終わった瞬間に「また見たい」と強く思わせるだけの魅力がある。作品のテーマも含め、2016年のアニメ映画の中では圧倒的に完成度が高いのではないだろうか。ただし

  • 「深刻な事態かと思わせてオチがつく」といったこうの史代の常套表現手法が頻出するので、原作を見ていないと話がわかりにくい
  • 広島弁がキツめなので聞き取りにくい

このへんは原作未読の人にはマイナス要素だろう。

またこの作品は見終わった後には、きっと「すごく良かった」という感想をいだくものの、「なにが良かったのか」と言われると説明しにくい。京アニのように分かりやすくレベルの高い舞台的演出があるというわけでもなく、美術のユニークさが際立つというわけでもないからだ。この映画をどのように整理したら良いのか、自分でもよくわかっていなかったので考えながら書いてみた。2回観て、ようやく腹落ちした。

(映画、原作漫画双方のネタバレを含みますので、許容できる方のみ読んで下さい)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この作品の「どこが良いか」を語りにくい要因は、実は2つある。

  • 太平洋戦争という舞台設定
  • 原作における「作者の主張」が、映画内では直接的に表現されていないこと

順に解説していこう。

言語化が難しい理由その1: 太平洋戦争という舞台設定

原作漫画で描かれているものは、「日常が破壊されるという戦時下の理不尽さ」、もっと抽象化するならば「日常を気まぐれに奪われ破壊されたことへの悲しみ、怒り、それでも前を向く希望」というものではないかと思う。浦野すずの人生におけるその振れ幅が生むカタルシスによって読者は感動する。(もちろん実際には作者がそうした物語を通して伝えたかったものが別に存在する(後述)) しかし読んでいるその瞬間には「太平洋戦争」や「軍艦」「原爆」などが持つインパクトや喚起するイメージが強すぎて、どうにも「現代の日常」からは遠い世界の物事に思えてしまうのだ。

おそらくこの映画が海外で評価されるとするならば、そうした「反戦」や「歴史の振り返り」という文脈で評価されることになるだろう。わかりやすい切り口があるという点では良いことだが、やはり鑑賞者の意識を「戦争」に多少なりとも向けてしまう力が働いてしまうのは事実だろう。

 

言語化が難しい理由その2: 原作における「作者の主張」が、映画内では直接的に表現されていないこと

「しあはせの手紙」

すずの人生における体験の振れ幅がカタルシスを生み読者の感動を誘うのだとは書いたものの、実際に原作漫画や映画を鑑賞した人は、ただのエンターテイメント作品のカタルシスとは違う「不気味さ」や「腹落ちの悪さ」のようなものを感じなかっただろうか。単に主人公の問題が解決されて「良かったね」ではないものがこの物語には描かれているということだ:

本来はなにも考えずにふわふわと生きていられたはずのすずが、不協和音の増えていく社会で死の重みを背負わされ、世界とのつながりも奪われ、その恨みの向かうべき対象も飛び立っていってしまう。しかしその中でもやはり日常を消失させまいと足掻き、新たに愛を育む。

原作漫画の最終章は、この人生を体験した人間のたどり着く境地、つまりこうの史代が浦野すずを通して読者に説得力を持って伝えたかったことを、すずの失われた右手が「しあはせの手紙」として文章化するという結びになっている。

以下に、「しあはせの手紙」の全文を引用しよう:

突然失礼致します

此れは不幸の手紙ではありません

だってほら
真冬と云ふのに
なまあたたかい
風が吹いている

時をり海の匂ひも
運んで来る

道では何かの破片が
きらきら笑ふ

貴方の背を撫づる
太陽のてのひら

貴方を抱く
海苔の宵闇

留まっては
飛び去る正義

どこにでも宿る愛

そして

いつでも
用意さるる
貴方の居場所

ごめんなさい

いま此れを読んだ
貴方は死にます

すずめのおしゃべりを
聞きそびれ

たんぽぽの
綿毛を
浴びそびれ

雲間のつくる
日だまりに
入りそびれ

隣りに眠る人の夢の
中すら知りそびれ

家の前の道すらすべては
踏みそびれながら

ものすごい速さで 

次々に記憶となって
ゆくきらめく日々を

貴方は
どうする事も出来ないで

少しずつ

少しずつ小さくなり

だんだんに動かなくなり

歯は欠け

目はうすく

耳は遠く

なのに其れを
しあはせだと
微笑まれながら

皆が云ふのだから
さうなのかも知れない

或いは単にヒト事だから
かも知れないな

貴方などこの世界の
ほんの切れっ端に
すぎないのだから

しかもその貴方すら

懐かしい切れ切れの誰かや何かの
寄せ集めにすぎないのだから

どこにでも宿る愛

変はりゆくこの世界の

あちこちに宿る
切れ切れの
わたしの愛

ほらご覧

いま其れも
貴方の
一部になる

例へばこんな風に

今わたしに
出来るのは
このくらいだ

もう
こんな時
爪を立てて

誰の背中も掻いてやれないが

時々はかうして
思ひ出してお呉れ

草々

「いま此れを読んだ 貴方は死にます」というフレーズはゾッとする。「ずっとボーっとしたままで死んでいく」ことが叶わなかったすずは、晴美の死以降うわべの言葉にむなしさを感じるようになる。自分が生きてきた世界が嘘ばかりであったと言い訳して悲しみを過去の「嘘の」世界に無理やり押し込んでいるのか、あるいは過去の自分を許せないあまりに腹が立つのかはわからない。「いがんどる(歪んでいる)」うわべの言葉、嘘を吐くたびに心が自分を刺す。

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「しあはせの手紙」を、「失われた右手が結んでくれた縁を彩るすずの人生の切れ端」、つまり「捨てる神ありゃ拾う神もあるよね」と解釈することも可能だが、「いがんだ」世界の果てにそんなご都合主義的な終幕はありえなくない?

留まっては 飛び去る正義

どこにでも宿る愛

これが併置されている以上、この最終章は「新たな愛」を祝福するハッピーエンドとは明らかに異なる。

「しあはせ」はうわべの言葉であり、「しあはせ」を考えてしまうことと、これらは表裏一体であるのだ:

  • 日常をボーっとしたままで生きていること
  • うわべの挨拶やお世辞を言うこと
  • いつの間にか消えている大義
  • そばにいる人を大切に思う心

風に流され飛ばされ、根を張ったかと思えばまたいくつもの種になって消えていく。タイトルにもエンディングにも現れるたんぽぽのように、これは無責任に移ろう人の性が生む両面性なのだ。反面、絶対的な正義のもとでは、排除される人に居場所は永遠に無いだろう。人の意思に流されて生きてきたすずが到達した諦めとも現状追認ともとれる境地。しかしそのカタルシスは人の感動を呼び、人生を再考させるに十分な力を持つ。この物語によって示されたのはこういうことだ(最後の文は僕の飛躍的解釈)。僕が物語でも特に人生譚を好むのは「多くの人の意志」がそこに読み取れるからだが、それはまさにここで言う、

  • 貴方すら懐かしい切れ切れの誰かや何かの 寄せ集めにすぎない

  • 変はりゆくこの世界のあちこちに宿る切れ切れの わたしの愛

が見えてくるからだ、とも言える。

またすずの成長という点では、彼女はより自分の主体的な選択を尊重するようになっている。「私を見つけてくれてありがとう」「呉を選んだ」という発言や、孤児を連れ帰る、などだ。それらは上記の「気まぐれな人の意思」に対抗しようという意志と解釈することもできる。人の意思の結果生まれるものに翻弄されて生きてきたが、できるだけ自分で選択をしていこうという意志だ。たとえ、それが同じような悲しみを生む可能性があろうとも、「愛」に近い選択をしていこうということかもしれない。

映画での最終章

映画では「しあはせの手紙」はカットされていた。厳密には挿入歌の歌詞となっていたようだが、初見の人には確実に分からない。

  • 物語にオーバーレイする手紙という表現が難しい
  • 文字が多すぎて鑑賞者は情報を受け取れきれない
  • 考えないと作者の意図することが分からない
  • 浦野すずの物語自体はひと段落している

といったことがカットした理由だろうか。挿入歌の歌詞として残すことで原作読了者(思い出すきっかけを与えればいい人たち)には伝わるようにしているところがうまい。一方でこれが無いことで鑑賞者は若干置き去りになる。拾われた子の背景はほとんど描写されていないため、「新たな縁が生まれて良かったね」という感情が生まれづらいのだ。「人の意志によって生まれる愛」の事例を提示するという役割なので、原作では細部が省かれているのは理にかなっているのだが。

つまり「しあはせの手紙」をまるごと取り除くのならば、「すずの人生におけるカタルシス」で勝負するしかないが、そのためには「拾われた子」に対する感情移入のお膳立てが不十分なのである。観ている側からすると、本来の文末が抜けているために「良かったけど良かったとしか言えない」という感想が生まれる。「良かった」のはすずへの共感の涙という事実を受けてのことだろう。

よかったところ

やりきれない悲しさ

悔しさと涙で呼吸も困難になりながら「ずっとぼーっとしたままで生きていたかったのに」とすずが叫ぶシーンは、まさにこの物語における負のどん底である。理不尽に日常を奪われたことを合理化する手段であった正義が、自分の存在を支えてくれていた右手を失った原因のその正義が、勝手に押し付けられたその正義がただのうわっつらだったと気づいた悲しさ。多くの犠牲を払って依り代としたものがまったく無駄だったという絶望。

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例えば『孤高の人』では、日常は「奪われた」のではなく「捨てた」のであるが、それが無駄に終わってしまうかもしれない恐怖が、常に主人公を苦しませる。対してすずさんはすでに日常のなかに居場所を見つけていたが、まったく望みもしなかったのにそのつながりである右手を奪われ、死の重みを背負わされた点でより悲劇的である。

もし、超越者を主人公とする物語だったならば「大衆」として描かれただろう人に対してもこれだけの重みを背負わせる戦争。この舞台設定を利用して、普通の人であるすずを主人公にしながら大きな心理的ゆさぶりを構築しているのだことは重要である。すずさんの体験した非日常体験に対して

  • 同じく普通の人としての鑑賞者は感情移入が容易になる

という効果があるからだ。物語作者の多くは、描きたい「非日常」と読者の「日常」をいかに接続するかということに細心の注意を払うのだが、この舞台設定を利用することである程度の共感を呼ぶことに成功している気がする。

しかし先ほども書いたように、こうの史代は「戦争とは普通の人に対してもこれだけの重みを理不尽に押し付ける」→「だから戦争は◯◯ (やめたほうがよい、など)」というテーマを語っていると見ることもできるわけで、作中では特にそういう主義主張に触れるような描写はないものの、「戦争」が喚起する「〜はやめよう」とか「〜は忘れてはならない」という連想を多くの場で目にすることが多いので、この作品のテーマが反戦だと勘違いしてしまいがちなのだ。(「そう解釈できる」という時点でテーマと言ってもいいのかもしれないが。)

個人的には、おとなになって気づけば映像を見たままではなく記号的解釈でしか見れないようになっていたり、社会人の責任みたいなものを期待されることに対して「ずっとぼーっとしたままで生きていたかったのに」とやりきれない気持ちを持つことがあり、あまりに卑小かもしれないが共感の涙が止まらなかった。

画風はリアルじゃないのに没入感がすごい

やっと映画に関して「良かったこと」だ。基本的にこの映画は原作が素晴らしく、その良さが映像によってより没入感のあるものになっていると言える。片渕須直監督の前作『マイマイ新子と千年の魔法』でも印象的なシーンが多くありながらそもそものストーリーがつまらなかったことを考えると、これはとても幸運な出会いだろう。

映像の良いところは大きく分けて2つある:

  • 身体性に依拠した演出
  • 夜の街の空気感

身体性に依拠した演出

これは『マイマイ新子』でも見られた演出だが、雪が太陽の光を受けてキラッキラッとまたたくように光る。「このようであってほしい世界」ではなく、「こうであったように思える世界」を描いているのだ。大抵の作家は前者を描く。例えば新海誠などはその最たるものだが、自分の物語を彩る最高の舞台を夢想し、映像化しているように思える。しかしその夢想によって描かれる世界は、「夢想によって3次元的に構築される世界」であって、「その世界を想起させる印象」とは異なる。

片淵監督が「画」ではなく「印象」を描いていることのもうひとつの例は、空間的な光と音の演出だ。すずさんが呉に嫁入りした最初の晩、海軍の照射訓練が行われていた。遥か遠くから9つの峰を照らし、自分の眼を一瞬眩しく照らすカットがある。眼を射る光という強烈な身体的体験(文章などの記号的体験でない、という意味)と、山々に反射する光によって海と山との距離感、山に囲まれた感じ(囲繞感)を激しく喚起させる素晴らしい演出だ。繰り返し出て来る防空警報などの音はもちろん、必ず峰からの反射音を含ませてある。

きめ細かな演出、「演出家が理解するための演出」でないプリミティブな体験を演出手法によって、異常なほどの没入感があるのがこの映画の特徴だと思う。

夜の街の空気感

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「身体性に依拠した演出」と若干カブるが、片淵監督は夜の空気を演出するのがとても上手い。簡単にいうと、

  • 望遠で
  • 奥行きのある画を
  • 定位置から撮る

ということだが、それに加えた演出上の小技、例えば『マイマイ新子』の上記画像のカットでは、ホタルが遠くを近くを飛び、光によって鑑賞者に空間をを認知させようとしている。『この世界の片隅に』ではさらにここに磨きがかかり、小技を担う光の反射が美しく背景や人物に届くようになっていた。地面に落ちる光も家に反射する光も投げかけられ(3DCGを起こしたのだろう)、ゾッとするほどの臨場感を持つようになっている。周作がすずに手帳を持ってこさせ、街をデートしたあとの夜の橋の場面などは、まるで自分がその中に佇んでいると錯覚するほどだった。

それに対して山田尚子監督の場合は、同じように望遠を使うとしても画としての美しさや映画表現としての臨場感を求めて演出を組み立てている。例えばハンディカメラの手ブレやボケなどがそうだ。

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どちらが良いとはいえないが、「時系列の絵でしか喚起できない感情をどうやって組み立てるか」という、僕からすれば想像もできないテーマに取り組んでいるという点で片淵監督は今後も要チェックな気がする。

 

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批評の死

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