前ブログの記事で、あらゆる表現は次の3つで捉えられると書いた。

  • クラシック : 様式。一般にイメージのクリシェとして利用可能であるもの。
  • アヴァンギャルド : 類を見ないもの。
  • バズ : マスメディアの登場以降。クラシックとはなりえないものの一時的なスタイルとして利用可能。

コンテクストとは、クラシック表現において読み込まれることになる、過去の表現の抽象化されたものことをここではいう。

よく、コンテクストはを押さえなければならないと言われるが、それって本当だろうか。専門家にとって必要なだけじゃないのか。科学、美術、音楽、建築について考えてみる。

Contents

科学

科学は査読というシステムがあるため、コンテクストを押さえなければ意味が無い(ということになっている)。ページランクのように、一般の人の支持を集めることになって引用数が増えるということはあっても、一般の人の支持を集めたからといってそれが定式化されないまま引用されるということは(意味が)ない。

美術

村上隆は『芸術起業論』の中で以下のように言っている。

美術の世界の価値は、「その作品から、歴史が展開するかどうか」で決まる。

根強い慣習や因習を振り切れる衝撃や発見や現実味がなくては革命にならない。

多くの人に受け入れられなければなしとげられない革命を促してゆくものこそが、真の芸術作品である。

歴史に残るのは、革命を起こした作品だけである。

つまり美術は、価値の転換を成し遂げることになったものとして後から評価されるものだということだ。

ここで重要なのは、美術表現の転換ではなく、価値の転換の象徴となりうるかということだ。その意味で、将来の専門家から、「この作品は歴史と当時と現代をつなぐ象徴である」というお墨付きをもらうために、コンテクストは押さえなければならないことになる。

しかし、その前に、その作品はなんらかの形で美術界に存在しなければならない。これには、ゴッホやヘンリー・ダーガーのように死後に発見されるようなこともあるだろうが、生前に美術館に収蔵してもらう・またはそれ自体でブームを起こすというのが現実的な戦略となろう。

幸いなことに、現代芸術には「概念の破壊」という評価基準が存在するので、いって見れば何でもありで、いかにその戦略を自覚的に進めるかということも文脈となりうる。

死後にしか評価されない価値を、生前にひきよせるために金銭の力を使ったのが、ジェフ・クーンズをはじめ、80年代以降にデビューしたアーティスト。

かつての権力者、宗教的権威、お金持ちが自分たちのために芸術家に作品を作らせるという単純な時代から、芸術家が芸術家のために作った作品を、まさにそのことを理由にお金持ちが自分たちのために買うというややこしい時代に移行した。そのため、作品としての価値と価格が大きくくずれた。

後者は『芸術闘争論』からの引用である。

芸術が「お金」の概念にも食指を伸ばしたことで、消費者が取り込まれた。消費者は、投機目的、税金逃れ、あるいは単に「かわいい」とか「かっこいい」とかでそれを買う。

サブプライム危機以前の現代芸術がそのようなものであった以上、それにはコンテクストのみならず一般の人が寄与することになり、キャッチーな価値が必要となった。と、村上隆が自身をコンテクストに位置づけるための物語はそうなっている。

音楽

あまり知らないのだが、音楽はオペラなど物語と一体となって感情を操作するものから、音楽それ自体を研究するようになり、またそうしたコンテクストとは別に、以前からある「一体感や物語性を演出する音楽」が一般の人々に受け容れられた(ポピュラー音楽)。現在は「できるだけ多くの人に感動を届けるポピュラー音楽」が人々の教養や選択肢の増加による多様化のせいで衰退し、各音楽領域ではお互いを評価しあう「駄サイクル」が生まれがちだ、というのは『ネムルバカ』で描かれている。

「できるだけ多くの人に感動を届けるポピュラー音楽」という文脈ではアイドルという「場」の付随物(演出道具)として使われており、コンテクストはほぼ関係ない。

各細分化領域では、多くの一般人を消費者として呼び込めないので、必然的に評価は同人によって行われる。そのため、先鋭化したコンテクストが生まれる。

建築

建築は権力だとか神性だとか、何らかの効果を求めて作られてきた。近代以前にはそれがだいたい神性(≒権力)であった(というか現在まで残るようなもので同一のコンテクストであるのはそれぐらい)ので、ほぼ同一の様式が確立されていた。しかし個人が確立し、経済が社会のルールを決定し、多様な価値を認めるという段階ごとに、居住性や商品価値が求められる効果として大きくなってきた。そして居住性や商品価値を以前からのコンテクスト(神性)と接続することはできていない。

つまりそもそも建築としての批評性はあいまいで、ひとことで言うと形状や体験ということになる。学問全体としては多様な研究がなされているが、船頭の多さゆえに今海にいるのか山にいるのかも分からない。しかし購入者がいなければ建たない現状が変わらなければ(デザインの方法論という拡張も行われているが)、コンテクストは不要であろう。

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