初エントリなので少し気合が入ってたり入ってなかったりするのですが、今回は「スーパーフラット」についてです。
建築でいわれているスーパーフラットは、村上隆さんが提唱したものとははっきり言って異なっている、というのが主な主張です。

建築のスーパーフラットは、五十嵐太郎さんによって定義されました。

建築のスーパーフラットとは(五十嵐太郎による定義(「現代建築に関する16章」より)
  ・立体的なヴォリュームや空間の組み合わせよりも、ファサードがデザインの核となるもの。
  ・建築における様々なレベルでのヒエラルキーの解体。

代表例として、伊東豊雄さんの「せんだいメディアテーク」やSANAAの「21世紀美術館」を挙げています。

一方、村上隆さんは、
「「すべてが超二次元的」という日本のスーパーフラット的な技法は、一点透視図法を用いた西洋の伝統の手法とは違う「多数視点法」を形成している。」
「欧米の分析方法から自己言及的な日本像を導き、その向こうに見える普遍的な美意識を世界の美術の文脈の一つに組み入れる」ための戦略である(「芸術企業論」より)

東浩紀さんは
「カメラアイがない。奥行きがない。階層構造がない。内面がない。あるいは「人間」がいない。しかし、支線がいっぱいある。全部に焦点があたっている。ネットワークがある。運動がある。そして「自由」がある。」(「現代建築に関する16章」より)

と述べています。

ここでまず明らかなのは、建築のスーパーフラットの定義は、「現在の日本の建築の状況を表現するために都合よく編集されたものである」ということです。
どういうことかというと、

スーパーフラットは、もともと日本人の美意識の中にあった多数視点が、現在のオタク文化の中に生きていることを確認し、そしてそのオタク文化は、戦後現代アートの主導権を握ったアメリカに対するコンプレックスから生まれたものであり、現在インターネットによって可能になった多数視点によるフラットな評価が、既存のヒエラルキーを無視するものであり、それをすでに行っているオタク文化の日本は世界の未来じゃないか。西欧式アートはそれによってひっくり返るじゃないか。

という戦略と解釈でき、建築のスーパーフラットを考える際に重要になることは、「建築は3次元であり、空間体験としては一人称視点である」こと、つまり、人が利用するものであって、単なる思想的評価だけでは成り立たないということです。

つまり、この「多数視点によるフラットな評価」が行われるのはエンドツーエンドのビットの世界であって、21世紀美術館がいくら展示を無方向に並べたとして、「何を展示するかという思想的評価の段階」においてフラットでなければ、それをどのように並べようがそれはキュレーションの世界です。

これに対して、塚本由晴さんは正しい解釈をしていると僕は感じました。
「「スーパーフラット」は一般に価値がないと思われている「ダメなもの」に接近するための方法論なんじゃないかな。」(美術手帳2000年5月号より)

つまりすでに評価されているものは評価の俎上に乗っているわけなので、実質的にはフラットな評価によって、それまで注目されていなかった、「ダメなもの」だと思われていたものが俎上に上げられる、ということです。そしてそこでは、コンテンツの魅力のみが優劣を決定するわけです。

実際には、すべての人がすべてのコンテンツを比較することなどできないので、マーケティングがとても重要になり、「炎上マーケティング」もかなり有力な手段になるわけです。しかし、まな板に載せられてしまっても、魅力がないものは消えていきます。

人が言っていることばかり紹介しても仕方がないので、ここで、僕がスーパーフラットの可能性として感じていることを話します。

僕は建築学科の学生なのですが、スタジオ課題で山地ニュータウンの調査をしました。ニュータウンは、1960-70年代の都市部の人口増加に伴う居住需要にこたえる形でつくられた、「国民全中流」の象徴とも言える、均質な区画割りの街です。それが、現在古くなってきていて、もともと車生活が前提に作られていたために、住民が高齢化してきてつらい状況になってきています。
長くなりそうなので結果だけ言うと、

人口が減少してくると、その場所の風土が見えてくる、ということです。

つまり、もともと戦後の政治的、法律的基盤整備は「戦時中への反省としての民主主義」「敗戦後の復興を支える資本主義」といったイデオロギーに満ちていました。
それが、エンドツーエンドが可能にした純粋なコンテンツとそのキュレーションのせめぎあいによって、基盤がもはやニュータイプたちにとっての枷になってしまったことが認識されると同時に、「便利さ」「自由なアイデア」「リンク数」といった条件に対する日本という国の本質(それは人と風土であって政治と法ではない)が実に多様であることがわかるようになってきたということです。

もうひとつは、「本当に日本が世界の未来になれるのかというと疑わしい」ということです。
日本が世界の未来だというのは、すべてをスーパーフラットに審査することを行っているからですが、世界もそれに追随しています。そうなると、言語の壁のせいで、そもそも日本に入ってくる情報自体が古く、少ない。これでは、将来的にまたしても日本は置いていかれてしまうわけです。

期待するべきは

Googleさんの翻訳技術

といったところです。

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